追憶のユースホステル
その1
体験してきたユースホステルについて綴っていきます
ユースホステル会員証 昭和51年(1976年)から昭和54年(1979年)
シールを少しずらせて上に貼り重ねていました
ユースの猛者は重ねている枚数が多く盛り上がり立体的になっていて、尊敬されていました
ユースホステルハンドブック
ユースホステル用語や決まり(昭和の)
・ペアレント ユースの経営者もしくは管理者 ユースのミーティングを主催するペアレントもいれば全く関わらないペアレントも
・ヘルパー ユースののお手伝いさん ほとんどがユースの会員でアルバイトとして数日から数年やっています 掃除・食事作りと片付け・ミーティングの進行などを行います
・ホステラー ユースホステルを利用する人
・ホスパー 造語でユースを泊まりながらヘルパーをして旅をする人
・ヘルテラー 造語でヘルパーをしながらユースを泊まっていく人 ホスパーよりヘルパー度合いが高い人
・ホステリング ユースに泊まり旅をすること
・ミーティング ユースの夜にある集会 ユースの近くの観光案内・当日宿泊者の自己紹介・ミニゲーム・フォークソングなどの合唱・一芸披露(カッコいい奴・ギンギンギラギラなど)
・スリーピングシーツ 封筒状になったシーツ これに入って寝ます(寝具を汚さないように)
・ユースは性別・国籍・年齢に関係なく泊まれます
・ユース内は禁酒
・宿泊は男女別室
・消灯が22時で起床が6時
・みんなでユースの清掃や布団上げ
・食事はセルフサービス、そして使った食器を各自が洗います
・ユースは初めて訪れる所でも到着した際には『ただいま〜』、と言って入り、『行ってきま〜す』、と言って出発します
・銀バッジ ユースに100泊して日本ユースホステル協会に申請すると貰える銀色三角形のバッジ この少し前までは50泊だった
昭和のユースホステルについては西岸良平氏の三丁目の夕日 夕焼けの詩 第16巻の4話にユースホステルという作品があります
何も知らなかった高校生の女の子が友達に誘われるままユースを体験し、その魅力にハマり就職後もユースの旅を続け
そこから恋人が出来たもののユースでの男の人と一緒に写る写真を勘違いされ振られてしまう
しかし・・・
最後は心温まる着地点となっていて、西岸氏の作品の中でも好きな一品です
奥道後ユースホステル 公営ユース 昭和50年の年末
初めて泊まったユース、往復はがきで宿泊予約した。
まだユースの会員にはなってなく、たまたま予約した公営の安い宿泊所がここというだけだった。
それは高校1年生の冬休みに中学時代に仲の良かったが別の高校に進んだ同級生のN君と松山に遊びに行った。
当時の自分たちからすると松山は路面電車も走る都会で、同じ愛媛県でも最先端という感覚だった。 大阪や東京なんてまだ行く気どころか検討にも昇らなかった。
夕食後のミーティングで全国各地から来ている大学生のお兄さんお姉さんらに混じってフォークソングを歌ったり、ミニゲームをやったりした。
今にして振り返ればなんのことは無いのだけれど当時はテレビゲームなんて無い時代で娯楽も限定されていたからとても新鮮で楽しく、新しい経験をして少し若者に近づけたような気がした。(大人に近づいたんじゃなく若者で、当時は自分たちは若者ですらなくてまだ中学卒業して1年にもならない子供だと思ってた)
ユースはロープウェイに乗ってようやく辿りつけるような場所だったので、ヘルパーさんに連泊をするのだったらと風邪薬を買うように頼まれて「領収書をもらってきてね」、と言われたのが領収書という言葉さえも知らずに困ったことが印象に残ってる。 やはり何も知らない子供だったんだ。
松山では古本屋に中古レコードが置いてあって聴き始めた吉田拓郎の伽草子と元気ですのLPが新品の半額以下で買えたのが嬉しかった。
また市内には奥道後観光バスという路線バスが走っていて在来の伊予鉄バスの半額以下で乗ることが出来た。
これは再建王の坪内寿夫さんが経営していて愛媛県知事や愛媛新聞と戦争状態になり採算度外視で運営していたらしいのだが、領収書も知らない自分がそんな高度な事を知る由もなく何か秘密めいたイケナイものに参加するようにバスに乗った記憶が残っている。
旅館松鶴 旅館ユース 昭和51年3月23日
高校1年生から2年生になる春休みにやはり先の同級生のN君とどこかへ行こうと決めた。
数カ月前の2泊3日の松山でちょっとコツを掴み旅の面白さも知って今度はかなり大胆な計画というか無謀な目論見を立てた。
行き先は九州で広島を経由してというプラン、当時の国鉄は信じられないほど運賃が安くその上にその頃あったワイド周遊券は更にお得でもうひとつその上に学生割引だった。
利用したのは九州北ワイド周遊券で大分から熊本を結ぶ豊肥線から北側の九州の国鉄が乗り放題(普通と急行の自由席に限る、当時は特急はまだ少ない時代だった)
ローカルすぎて乗客が数人しかいない国鉄の仁堀航路で愛媛県から広島県に渡り広島市で半日観光、広島駅でワイド周遊券を買い夜遅くの急行雲仙・西海に乗った。 10両程度の車両編成だったが仁堀航路と同じくほとんど人が乗っておらず、中には1つの車両に乗客ゼロなんて部分もあった。 席は普通車でも簡易リクライニングシートで当時の急行の直角シートからは夢の様な待遇だった。
無謀な計画というのは夜なるべく遅くまで行動し、駅の待合室に泊まって朝早くの列車で移動するというものだった。
開始初日からこれはつまずき門司港駅では追い出されかけて翌日の別府駅では実際に追い出されビジネスホテルに泊まることになってしまった。
3日目が熊本でまたも駅内で泊まろうとしていたら駅員さんに「駅に泊まることは出来ない。若者の旅であればユースホステルというものがあるからそこを紹介しよう」、と電話で空室確認までしてくれて泊まることになったのがこの旅館兼のユースだった。
ミーティング等は一切なかった。 ただ前日のビジネスホテルからすると2食付いて1450円(もちろん当時は消費税なんて無かった)という高校生にも優しい料金はたまらなく魅力に感じた。
そこで翌日熊本で会員登録の手続きをして、この日から日本ユースホステル協会の会員となった。なので上に画像で出した会員証には熊本県のスタンプが見えます。
※ 後記 令和4年の4月3日に再訪しました
建物は元からあった旅館は解体されていて、増築された部分が残っていました
旅館を相続されたご夫婦ともお会いでき、旅館が賑やかだった頃の絵を見せて頂きました
ルノワルユースホステル 個人宅ユース 昭和51年3月24日
全員が前日にルノワルユースに泊まった N君と自分以外の3人はそれぞれ単独の旅
翌日のここルノワルでユースホステルを決定的に好きになってしまったと思う。
建物内に画家のルノワールのポスターや模写がありとあらゆる空間に貼ってあり、しかしやはり世間知らずで何んにも分かっちゃいない自分たちは当然のようにルノワールなんて知らなかった
なんかぶよぶよした半裸女性の極彩色の絵が多く飾ってあるなー、程度のまことに失礼な印象だった。
しかしここのペアレントさんヘルパーさん、出会ったお兄さんお姉さんたちはとても親切で優しく旅の魅力や楽しみ方をいっぱい教えてくれた
翌日はそのうちの数人と柳川をいっしょに回ることになり、ユースで出会い旅の行動を共にするという黄金方程式のような部分を知ることとなった。
※ 後記 令和3年の9月26日に再訪しました
ユースは6年前に廃業したようです
しかし建物は当時のままで残っていました
スマホで撮影しているとヘルパーが高じて今はここで暮らしているという方とお話をする事が出来ました
平戸口ユースホステル 直営ユース 昭和51年3月25日
ユースはさすがに直営ユースだけあって建物も堂々としたもので定員も多く日本中から大学生や短大生、若い社会人が集まってきてた。
翌日は島である平戸に船で渡る時に橋が工事中なのが見えた。
※ 後記 令和3年の9月25日に再訪しました
建物は記憶よりずっと小さくて、これが定員100人だったとは思えないものでした
今はユースホステルではなくなり、ペンションのような施設となっています
長崎南方苑ユースホステル 基準ユース 昭和51年3月26日
ミーティングではみんなで長崎の夜景を見に行った。 「日本三大夜景の一つです。あとの2つは函館と神戸」と説明があった。
対面側からだともっと綺麗らしいのだけれど、明るい照明が多いのがこちらのほうで、湾を挟んでの向かい側は照明は多くなくこんなものかなと感じた。
しかし日本三大夜景という言葉は記憶に残り、北海道なんて夢のまた夢くらいに思えたけれどいつか函館の夜景も見たいと思った。
※ 後記 令和3年の9月24日に再訪しました
検索してみると平成7年に道路拡張に伴い閉業し、建物も解体されたようです
ユースだった面影はすっかり無くなり新たな道路が建設中でした
通りかかった近くにお住まいの方と話をしてみると懐かしそうに語ってくれました
下の道が拡張される事に伴ってユースは閉業
新たにこの道から山の上部へ向う道が建設中でした
尾道友愛山荘 直営ユース 昭和51年3月28日
長崎で友人のN君と別行動となり翌日の夜行で広島県の尾道市へ来てここへ泊まった。 長崎からどう広島まで帰ったかや広島市で乗り換えたかどうか記憶があいまい。
ミーティングは夜の散歩で対面の向島や瀬戸内海を見た。 近くのお寺の屋根に乗っている玉がぼんやりと赤く光っていたのが印象に残ってる。
こんな形で無謀な駅宿泊で計画してた旅はユースホステルの楽しさを知る旅と途中からなった。
ユースを旅してた人には分かる思うけど旅自体が楽しい以上にユースに泊まることがことのほか楽しい。
そしてユースの評判を聞くにつけ「あそこはミーティングが楽しいと聞くから泊まりたい」、と旅での観光地巡りより行き先で面白いユースに泊まることが基本となっていくようになってった。
数ヶ月前まで他所の場所へ行くこともままならなかったけれど、年末の松山とこの九州で小さな自信を付けたのと何よりも旅とユースの楽しさにどっぷりとはまり込んでしまった。
そして旅が好きな人に共通するように帰宅して少し経つともうどこかへ行きたくなっていた。
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