追憶のユースホステル その2

その1はこちら


 時刻表を見るのも初めてだったのが学校があるうちは遠くに行けれない代わりに時刻表を見て空想旅行計画を立てるのが楽しくてしようがなかった。 すると持っていたコンパクト時刻表では列車は全部載ってなくてでっかい大時刻表(確か当時400円だった)が私鉄や都会の電車を除けば鉄道の全列車に船も飛行機も駅弁や緑の窓口までもが載っている事を知りそちらを買った。

 空想旅行は日に日に大きくなり、また具体的な旅の計画で乗り継ぎをどうやって(時刻表は到着駅から逆に調べていくといい事をこの頃身体で覚えた)なんて毎日やってた。  そして遂に東北へ行きたいと考え始めるようになった。  なぜ東北かというとよく覚えていて関西は親戚もいて連れられてよく行ってる、東京関東は秋の修学旅行で行く予定だ、中部はそもそも考えてなかった、北海道は当時大ブームが始まっていてなんか若いおしゃれな女の子が行くちょっとちゃらちゃらした軽薄な場所というイメージで、逆に東北は暗い因習が残っていて旅先としてはマイナーなイメージがあるように自分勝手で失礼な感じを持った。  
『だからこそ東北へ行くんだ行くのがいいんだ』   
 そう若者の特権というか身勝手な発想で思い込み始めた。   半年前まではまだ子供で若者にもまだ成れないと自分から思ってたのがこの頃は若者の一番下っ端くらいに思いはじめてた。

 お金は少し持ってた。    小学生の頃から貯めていたお年玉が10万円以上あった。  ユースが1泊2食付きで上限が1450円と決められていた時代だった。     ここも無謀なところなんだけれどユースの食事はおかずは決まっていたが、ご飯だけは何杯おかわりをしてもよかったので朝をたっぷり食べて昼は我慢して夜にまたユースでたっぷり食べればいいと計画した。
 ワイド周遊券は地元の駅では売ってなくて大阪で買うことにした。    ほんとはいけないことなんだけれどユースではワイド周遊券の交換がさかんにされていてその事を予想しても交換相手が多そうな大阪がよさそうだった。

 もう一つの目的も思いついた。    現在高校の普通科にいて来年は受験の年、自宅から通える大学はないのでどこかの街に出る事になるだろう。    ある人から「大学は単に頭の程度で選ぶんじゃなくてその大学がある街が自分に合うかどうかを考えたほうがいい」、というアドバイスを貰ってなるほどと思っていた。  そこで大阪京都、名古屋、東京横浜とそれぞれ1日か2日をかけて自分の足で歩いて街を知って印象が良かった街の大学を受けよう、そう決めた。   でもって今があるのはなんとも不思議なもんですね。
 
 7月20日高校一学期の終業式の夜、夏休みは翌日からだけど待ちきれずその夜出港のオレンジフェリーに乗って7時間、早朝の大阪南港に着いて旅が始まった。


東山ユースホステル   基準ユース  昭和51年7月21日



 京都はまだ市電が走ってた。   その上にユースの前は京阪電車が普通の電車なのに路面を走っていた。
さすが京都、観光の街でユースにはたくさんの若者が全国から集まってきてた。     ミーティングがあり日本各地から来ている人がいた。     

 残っている写真に「鳥取からきた女の子2人組が京都駅まで送ってくれた」、とキャプション付けているのは昨夜のミーティングで知り合った子だったと記憶してる。
 ユースの印象に残っているのはクーラーなど贅沢品でまだ付いてなかったために窓を開けていて京阪電車の走る音が夜遅くまで響いて寝付けなかったこと



市ヶ谷ユースホステル   直営ユース  昭和51年7月23日



 京都から岐阜まで移動し岐阜から高山本線で鵜沼へ行き、そこから名鉄に乗り換えて明治村を見に行った。このあたりは覚えている。
 まだディズーニーランドなどのテーマパークはなくて何かの機会で知った明治村に行ってみたかった。
本物の蒸気機関車や創業時の京都市電が実際に動いていたのも理由としてあったと思う。





 その後は名古屋に移動し、テレビ塔に登ったりした。地下街のセントラルパークが完成前で大きな工事をしてたのが記憶に残っている。
 
 名古屋からは有名な大垣発東京行きの夜行に乗った。名古屋から岡崎までは完全に通勤電車で混雑し、大きなリュックを背負ってたのがかなり異質な存在だった
そこから東京までは時間が長くて寝られなくて4人のボックスを占領出来る空き具合でもなかなか時間は過ぎなくしんどい思いだった。
 東京では鉄道博物館に行った事、駅のトイレや駅前の散髪屋さんなど、どこもが外まで行列ができるほど混雑していて「この街には住めないな〜」、と感じた。

 市ヶ谷ユースは直営ユースだけれどなんか事務的でミーティング等はなくただ寝るだけだった。


神奈川ユースホステル   公営ユース  昭和51年7月24日



 横浜まで戻り横浜港で氷川丸を見たり港の見える丘公園へ行ったりした。神奈川ユースは公営でそこそこの設備だったがやはりここもミーティング等は無かった。再び東京に戻ったが何をしたか覚えてないし写真やパンフレット等の資料も無い
 ただ大阪・京都、名古屋、東京・横浜と街を見てきて名古屋がなんとなくいいイメージが残った。結果1年半後にはこの街で大学生活が始まりなんだかんだで今まで住んでいる。

 賑わう夜の上野駅から満員の急行佐渡4号に乗り、翌朝新潟へ到着。そして磐越西線で福島県へ、ここから東北の旅が本格的に始まった。


会津の里   基準ユース  昭和51年7月26日



 会津若松へ寄った後にこのユースに泊まった。ここでは洗濯をしたのを覚えていて洗濯物を庭に張ったロープに洗濯バサミで干していった。そんな事も初めてに近い体験だった
 またこの旅に備えて長く歩くこともあるだろうからと軽いデッキシューズのようなのを買って履いていたんだけれど、それだと凄く疲れてそのことを話すと宿泊してるお兄さんに「歩くんだったらむしろ丈夫なしっかりした靴のほうが疲れないものなんだよ」、と教えてもらった。やはりまだまだ世間も常識も知らなかった。

 このユースには平成22年に34年ぶりに訪れた。記憶にあった特徴ある看板がそのままなのが懐かしかった。



仙台赤門ユースホステル   基準ユース  昭和51年7月27日



 この日はよく覚えている。東北新幹線の工事が真っ只中の仙台駅に到着したら駅のあちこちに号外が張られていた。ロッキード事件でまさかの田中角栄元首相が逮捕されたのだった
疑惑はしきりに報道されていたが、元首相は逮捕できないだろうとも思われていたから自分を含めて日本中が驚いた。ユースでもその話題でもちきりだった。


毛越寺ユースホステル   基準ユース  昭和51年7月28日



 ここは駅からの一本道をお腹をすかせながらでも元気よく歩いてユースに向かっていったのを記憶している。無謀な計画通りに昼食抜きで朝と晩のユースのご飯食べ放題でやってたからだ。なのでユースを選ぶのもワイド周遊券が使える国鉄駅から歩いていけるのが普通列車しか停まらなくても第一条件で有名な観光地でも周遊券が使えない私鉄やバスの運賃が高かったり入場料が必要だったりだとよほど興味が湧かない限り訪れなかった。

 だからここ平泉でも有名な中尊寺には行ってない。当時は寺なんて興味が全く無かったから
毛越寺もユースをやっていたから泊まりにきただけだった
でもここの毛越寺は平安庭園で、でっかい池があって普通よく見る日本庭園とは全く異なった趣きで、そのなんか奇妙な悪くない違和感が印象に残った

 ユースでは希望者は早朝に座禅を組むことが出来るとのことで翌朝はそれを体験した


宮古末広館ユースホステル   基準ユース  昭和51年7月29日



 毎日どこかへ行きユースに泊まっているけど事前に行き先もユースも予定していたわけではなかった。ユースで知り合った人達が勧めてくれる楽しいユースや観光地を大型時刻表で見て移動してユースハンドブックで当日の午前中に電話で予約を入れていた。ここは岩泉の龍泉洞という鍾乳洞が日本三大鍾乳洞でとにかく凄くて一度見ておいたほうがいいとアドバイスを貰ってやってきた。

 途中から岩泉線というローカル線の先の更にローカル線に乗って龍泉洞に行ったが四国の生まれ暮らした場所も田舎だけどここはもっと田舎だなぁ、と感じた。宮古の駅では地元の高校生から話しかけられて「ここまで来たなら浄土ヶ浜の遊覧船に乗って寄ってくるウミネコにパンをやらないと」、という言葉に大いに共鳴して翌日はそれを実行した。


野田ユースホステル   基準ユース  昭和51年7月30日



 このユースはよく覚えている。それまでのユースが相応に年数が経っている建物で有体に言って古ぼけたものだったが、ここは新しくしかも窓が多くて明るい建物だった。
ペアレントさんによるとまだ新しかった小学校が廃校になってしまい再活用としてユースになったそうだ。なので「2年1組が部屋です」、なんて宿泊の際には案内された。
 いい施設なのに場所が不便なせいか夏のシーズンでもこの日は10人ちょっとの宿泊客だった。
 


川要グリーンユースホステル   基準ユース  昭和51年7月31日



 この頃になると初めて泊まるユースでも何日か前に泊まったユースでも泊まってた人と会うことがほぼ毎日あり、当然そうした人とは話が弾みどんな所を巡ってきたかや今後の予定を話したりしていた。ここでは自転車で単独東北一周している大学生のお兄さんと再会し翌朝も駅まで送ってもらった。

 そしてこの旅を通じてなんだけどちょうど4年に一度の夏のオリンピックが開催中だった。それはモントリオールオリンピックで今はたけしのギャグでしか知らない人が多いコマネチが正に妖精のような真っ白なレオタードで10点満点を何度も出して全世界を驚嘆させて、ユースでも彼女の話題で持ちきりだった。
 ここのユースの夕食は毎日カレーライスでおかわり自由、それまではほぼ毎日貧しいおかず(ユースは料金上限が決められているので一部のユースは極端に粗末な食事だった)で3杯くらいご飯を食べていた自分にとって嬉しい食事だった。


瀬川屋旅館   旅館ユース  昭和51年8月1日



 この日は予定があった。中学3年の時の担任のT先生と会うことになってた。
 定年でもないのに安定した仕事を辞めしかも四国から岩手県まで転居したのは深い訳があったんだろうと後になって思った。しかしこの時は旅に出てから「そうだT先生が盛岡に引っ越したんだったら会ってみたいな」、と頭に浮かびこの数日前にまだ無料だった104の電電公社番号案内で尋ねるとすぐに電話番号が分かった。一年半前には中学生だった子供が1人でこうして来ていることに先生は驚いていた。

 当日は先生は奥様を連れてきていて折角だからとタクシーを飛ばして小岩井農場へ連れて行ってくれた。昼食抜きの話なんかもしてたからそこで初めてのジンギスカン料理を食べさせてくれたりしてとても世話になった。残念ながらここのユースのことは何一つ覚えていない。


鎌田屋旅館   旅館ユース  昭和51年8月2日



 旅に出る前にぼんやり思ってたのは「東北3大祭りもしくは4大祭りをちょっとでも見られたら」、というのがあった。また3大祭4大祭りからは外れるけれど本当は福島県の相馬野馬追いがテレビの影響かなんかで一番見たかったのが日にちが合わなかった。そしてここの秋田の竿燈は当然のように当日ユースを予約しようとしても空いているわけがなかった。そこで駅前でやってた昼間の竿燈を見てこの横手市のユースに泊まった。


仙台おんないユースホステル   個人宅ユース  昭和51年8月3日




                     広瀬川東岸のこけし塔前で

 
 
 仙台に戻り七夕祭りを見た。あまり印象には残っていない。
 ここで泊まったおんないユースは定員が15名と小ぢんまりしたユースで建物も普通の個人宅だった。確か前の年に開業した新しいユースでお風呂も家の一人用の風呂を交代で入った。しかし食事は豪華で焼き肉・サラダ・野菜炒めでこの旅で一番だったと感想に書いている。

 ユースの名前に付いている『おんない』、はこちらの方言でいらっしゃいの意味だとペアレントさん(経営者さん)が教えてくれた
 ミーティングも楽しかった このユースで知り合った人達の有志と翌日の午前から昼食まで行動を共にした。写真見るとみんな笑顔でほんと楽しかったなぁ。(ここの全ての写真はプライバシーがあるので小さくしています)


鶴岡ユースホステル   直営ユース  昭和51年8月4日



 直営ユースで駅からけっこう離れていたものの、設備は新しくて整っていた。
 ここでもコマネチの活躍をみんなで見た鮮烈な記憶が残ってる。会場の得点電光掲示板には10.00という表示が当時はなくて(9.99まで)なので10.00は0.00と表示されてそのことも世界の話題となった。


ユースホステル荘厳寺   寺ユース  昭和51年8月5日



 当時年4回発行の季刊誌で『旅と鉄道』という雑誌があった。少し前からそれを読み始めていてその中で賞賛されている五能線には乗ってみたいと思ってた。その五能線沿いのユース
 高台に建っていてユースからの日本海の眺めが良かった   ミーティングは無かったと思う


ユースホステル浅虫高野山   寺ユース  昭和51年8月6日



 この日は昼前に弘前に着き弘前ねぷた祭りを少し見た。青森市内はねぶた祭りでどうせダメだと思いつつ青森市のユースに電話を掛けると最後に電話した(一番離れている)ここは大丈夫との話で予約した。
 行って驚いた。それまでは寺のユースでも宿坊のような所が泊まる場所だったのが、ここは本堂だったかとにかくとてつもなく広い場所に布団があるだけ泊めようという感じだった。そりゃねぶた当日でも満室にはならないだろう。
 
 ねぶたを見るために浅虫から青森まで国鉄で夜移動する際の列車が超満員だった。少しの身動きも取れない車内で東京から来てるらしい近くに乗っている乗客が「朝の●●線並だよね」「いや△△並でしょ」なんて話しているのが聞こえて田舎者の自分にはこんな満員の中でも臆することなく話していて、しかも東京ではこんなのが日常なのかとテレビで見るだけだったラッシュを実体験し、げんなりだった。

 でも体験したねぶたはとても楽しかった。部外者にもオープンでハネトの若い子達が「一緒にはいろ!」といろんな所から誘ってくれて普通の私服のままニワカハネトとして跳んだ。この旅の大きく記憶に残る体験となった。


下北ユースホステル   直営ユース  昭和51年8月7日



 この頃になるとユースで歌うフォークソングも覚えてきた。世代としては自分よりちょっと上の『遠い世界に』 『翼をください』 『悲しくてやりきれない』、などでなんとなく聞き覚えがある曲が多かった。
 そんな中でそれまでまったく知らなかった歌だったけれど、どのユースでもミーティングの最後に照明を消してリンク先の動画よりゆっくりゆっくり歌うのが『旅の終わり』、で哀愁を帯びた曲はやがて大好きな曲となった。


ユースホステル本覚寺   寺ユース  昭和51年8月8日



 昨日の下北ユースで知り合った美人お姉さん(下北ユースでリュック背負ってる画像の人)と一緒に行動した。ユースの旅ではこんな異性との時間が過ごせるのかと夢のような心地になった。最後に彼女からかわいい絵葉書を貰った。


ユースホステル矢野旅館   旅館ユース  昭和51年8月9日



 津軽は太宰治の影響で来たかった。三厩にバスで入った時には「これが太宰が表現した鶏小屋か」、と感慨ひとしおだった。しかしその後の終点では青函トンネルの工事がひっきりなしに行われていて、さっきの気持ちと裏腹に時代は進んでいくなと感じた。

 旅に出る前には北海道へはまったく行く気はなかったのが目の前に北海道の渡島半島が見えると「ここまで来たのだから」、と俄然行きたくなってきた。三厩から青函連絡船なんて比較にならないほど小さなフェリーが当時は出ていてそれに乗った。船内では長距離トラックのおじさんがいろいろ話しかけてくれた上にイカそうめんまでごちそうしてくれた。


大沼景雲荘ユースホステル   基準ユース  昭和51年8月10日




森の海岸    後方の海に明治天皇御上陸地の記念碑

道道が新鮮に感じた


 今は有名になった駅弁の森のいかめし。当時はまったくそんなブームになる前で単に一番安い駅弁としてちょっと知られていた。保育社のカラーブックスという文庫は当時としては珍しいカラーで、その中で森のいかめしは70円で紹介されていた。
 それをぜひ食べてみたいと函館経由で森を目指した。乗った列車が大沼公園をぐるっと廻る路線で時間が経っても景色が変わらないことと列車の窓ガラスが二重になってることに驚いた。森駅では駅弁の売り子さんがいて販売してた。
 そうそう当時は缶のコーラやジュースは250ccの細長い缶が普通だった。しかし北海道だけは350ccで珍しがられていた。重たくなるのにコカ・コーラとセブンアップの350cc缶を買ってリュックに入れ四国まで持ち帰った。

 函館に戻り函館山からの夜景を見て数カ月前の春休みに長崎で『日本三大夜景で、あとは神戸と函館です』、と説明を聞いた時にはまさかこんなに早く来られるとは思ってもみなかった。
 知り合った関西の大学生の3人と銭湯に行き遅い夕食を共にした。なんか堪能した気になって翌日朝一番のの青函連絡船に乗ることにした。


さやま遊園ユースホステル   個人宅ユース  昭和51年8月13日



 朝7時10分の青函連絡船で青森へ。青森港到着後すぐホームに走り11時40分の日本海周り急行きたぐにの自由席を確保、昼食に駅弁の津軽貝柱弁当を買う。20時55分新潟着で25分停車、夕食に駅そばを2杯食べる。時間があったので駅前に出て初めて月刊文藝春秋を買う。なんでかというとその号にかなり話題になった芥川賞受賞の村上龍の限りなく透明に近いブルーが掲載されていたから。

 翌朝8時半頃に大阪駅着。駅のコインロッカーにリュックを入れ阪神電車で甲子園へ行き眠たい目で柳川商業が出てる高校野球を見た。そして乗り継いで狭山のユースに泊まる。
 翌日ユースのテレビで高校野球を見てたけど東北・北海道に比べて暑い。こんなに暑いとスイカが食べたいと昼過ぎのオレンジフェリーに乗り実家へ帰ってひと月近くなってしまった初めての一人旅が終った。






その3


































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