追憶のユースホステル

その4  大学一年生



 愛知県の大学に2校合格した
 高校の担任に相談したら『僕は関西学院卒業生だから同じプロテスタント系列の名古屋学院がいいと思うよ』
という言葉と入学金と年間授業料がもう片方よりも1割ほど安かったので名古屋学院大学に進学すると決めた

 名古屋学院と言ってもその当時は瀬戸市の山奥にあって名古屋駅から2時間以上もかかるような場所だった
 住む所は学校が無料で斡旋してくれた   希望家賃と『学校から近いところ』、そう書いた
そのように書いて提出した用紙は手続き締め切り間際だったので瀬戸市の西部(学校から随分離れる)共栄通という場所になった
もちろん部屋なんて見て無くて決めている    当時はそんなものだった

 3月に行って驚いた
部屋は計6帖で入り口半帖分が土間で靴脱場、その横の半畳が押入れ    畳は横に5枚敷かれた長細い部屋
それはまだいい    嫌になったのは天井が鴨居の高さしかない    丸首の服を脱ぐと天井に手が当たる
なりよりその天井高だと圧迫感があり息が詰まりそうだった

 内廊下でトイレは汲み取りで共同、炊事場も洗面も共同、風呂は效範(こうはん)温泉という銭湯で歩くと15分くらいかかった
部屋は20室ほどあり3棟に分かれていた
隣に大家さんが住んでいて瀬戸市の市会議員、近くで喫茶店も経営していた

 当時は日曜夜に青春ドラマをやっていた時代で『下宿の大家さんが喫茶店やってる』
そう知らされて勝手にドラマのようなシーンを思い描いていたのが部屋を見て崩れた
更に安普請で隣の部屋の会話もラジオも聞こえる、二階の廊下を歩く音も室内に響く

 そんな事もあって住み続ける学生は少なくて、約20室の部屋のほとんどが新一年生だった
そこに入ったのは岡山県、京都府、大阪府、静岡県、滋賀県2人、岐阜県、三重県、そして愛知県なんだけど知多半島の先や豊橋など通学が難しい所が名古屋学院の学生で、他に少し愛知工業大学の新入生がいた

 高校三年の時に二輪免許を取って中古の125ccバイクを引っ越し便で送ってた
バイク通学での新生活が始まった



下宿屋に入って半年ほど経った頃(室内でも冬着)

畳が5枚のこんな部屋
右から二番目のテレビを見てる白いトレーナーの同級生は後に出身である舞鶴市の市会議員、市議会議長になります
その彼の部屋に唯一カラーテレビがあったのでこんな感じで毎日集まってました



ユースホステルハンドブック 昭和53年版






ユースホステル愛知青年会館     昭和53年3月13日






 大学入学前に引っ越し荷物の受取や入学準備で愛知県へ出てきた
今は瀬戸大橋が開通し、新幹線ものぞみ号が走って3時間半になったけれど当時は宇高連絡船や宇野線などを利用して名古屋まで8時間近くかかった
それもあって宿泊したユース

 都会のオフィス街の裏通りにあるユースとは思えない立派な建物
夕食と朝食は1階に併設されていたファミリーレストランのあさくま
ユースでは上限金額が決まっているので食事は最低限の食べ物がほとんどだったのがファミレスでの食事で豪勢に感じた


昭和53年4月    新歓コンパ  新歓合宿

 名古屋学院大学ユースホステル部の入部者は15人くらいいた
しかし自分以外の地方から来ていた数人は夏まで持たなくて辞めてしまった
結果、新入生は自分以外皆が愛知県の人間で言葉、方言が全然違った
言葉も違うしアクセントも違う、例えば地下鉄駅や人名の黒川は西日本では『く』にアクセントがあるのがこちらでは『ろ』にアクセントがあった(三越なんかもそうですね)

またちょっと大げさだけど文化が違ってた
当時自分が育った市には全国展開している店は一つも無かった
今ではココイチもコメダもマックもモスもドンキもあるようになったけれど、ロッテリアに連れられて行ってドキドキする自分だった

 テレビも民放の日本テレビ系列、そしてフジテレビ系列が小学校の途中で開局したくらいでテレビ朝日系列やTBS系列、テレビ東京系列の番組は知らなかった
人気のあったクイズダービーを見た時にはそのルールというか進行(当てる人を当てる)が分からなかった
今では懐かしく振り返る思い出だけれど、当時はコンプレックスやみじめな思いで普通に会話するのも気が引けた    まぁ若かった
 
 下宿屋では皆がいろいろな場所から来ているからそんな事は無くすぐ打ち解けた
これは今のワンルームだったら違っていただろう   トイレも洗面も炊事も共同だったから濃密な関係が否が応でも作られたと思う


 大学には合宿所があった  そこで新入部員歓迎コンパそしてその夜は合宿という事で泊まった
おおらかな時代で未成年でも大学生の飲酒はおおめに見てもらえた

 柔道場を更に大きくしたような合成畳の部屋で新入生、2年生3年生4年生(4年生はちょっと顔を出す程度)で行われた
乾杯の後は一年生の前に二年生が座り込み、あれこれと話し込んできた
これは後に分かったけど2年生に与えられた役目だった

 自分は旅が好きなこと、ユースが好きな事、今まで泊まったユースの話を懸命にした
しかし先輩たちはそんなにユースには泊まっていなくて、大学のユースホステル部とはとか、こんな行事がこれからある
そんな話というか半分説教のような時間だった

3年生数人と2年生新入生は全員そこへ布団を敷いて宿泊
どうやら名古屋学院ユースホステル部はあまりユースには泊まっていないということが分かり残念な気持ちになった


近江希望が丘     昭和53年5月27日




 

 ひと月と少しして新入生歓迎ホステリングがあった
これは新入生の歓迎もあり、新二年生がリーダーを務める初めての行事ということで4月に学校が始まってすぐ予定や役割が進んでいった

 新歓ホステリングは新入生1人に二年生、そして付添いで三年生が参加した
国鉄で野洲駅、そこから上のガイドブック案内にも出ているように40分山道を歩いた

 ユースホステル部は大学によって体育会系の部になっている所と文化系の部になっている所とがあった
東海地方の大学はほとんど体育会系で一部の短大は文化系だった

 そんな体育会系という事もあり単にユースに泊まって楽しいな、では無くてランニングやうさぎ跳びなんかもやっていた
この山道を歩くのもその流れだった
更に体育会にありがちな上下関係の厳しさが存在していて、キャンパス内で先輩をみかけたら大声で『ちわっす!』と挨拶する習わしだった



昭和53年6月   第7回合同オリエンテーリング  愛知県知多郡阿久比町



 ユースホステル部だからユースに泊まって旅を楽しむ部、そう思っていた
ところが東海地方の大学のユース部は横の繋がりが深くていろんな旅以外の行事を行っていると入部して知らされた

 30校近い大学や短大のユース部の部員が一同に集まってオリエンテーリングが行われた
やはり2年生がリーダーで短大の2年生の女の人がサブリーダー
そこに三年生が若干、そして多くの一年生で一つの班を構成していた
数えると9人でサングラスの人が愛知学院大学の三年生、ピースサインしてるのがリーダーの愛工大の二年生、その左隣が淑徳短期だったと記憶してるサブリーダー二年生で残りはみんな新一年生

 このリーダーの愛工大の先輩とは翌年から密接に関わるようになる

 合同OLはたぶん600人程度参加したと思う
途中から雨になり濡れながらオリエンテーリングのポイントを探して皆で歩いた

 
 分かったのはユースが好きでユースホステル部に入ったのはほとんどいない、という事
先輩に誘われて楽しそうだったから、なんとなく気分で、男ばかり(女ばかり)の部ではつまらなさそうだから
そんな感じで旅が大好きなんて新入生はいなかった




昭和53年7月下旬      合同キャンプ     岐阜県恵那郡川上村夕森公園    東海学園女子短期大学と   





  夏休みが始まるとすぐに合同キャンプが二泊三日であった
東海三県の4年生大学と短大との2校でのキャンプで、ほとんどのユースホステル部もこの時期に行っていた

 OLと同じく二年生がリーダー、サブリーダーを努め8つ位の班を構成、名古屋駅南口集合でバスを2台貸し切ってキャンプ場へ行った
キャンプ場にあるテントを借り、ペグを打ち込んでテントを立て、飯盒炊爨での食事や昼はオリエンテーリング、夜は班でのスタンツと呼ばれる催しを初日の練習から二日目の夜の本番と行った

 参加してるみんなが楽しそうで、しかし自分はユースホステルのミーティングと異なるノリに波長が合わず、また言葉(方言)の事もあって皆んなほどは楽しめなかった



昭和53年8月19・20・21日     第8回キャンプラリー    岐阜県郡上郡高鷲村 ひるがの高原




スタンツ風景

オリエンテーリング途中で


 8月のお盆前に一年間で最大の合同行事と聞かされたキャンプラリーという催しがあった
体育会系なので部活動は絶対参加の強制参加   授業は休んでいいけれど週に2回ある部会も絶対参加

 大学の夏休みは2ヶ月ほどもある  実家に帰省していたので合キャン、キャンプラリー、そして夏合宿とその都度約8時間かけて名古屋に出てきてた

 手元にその時の資料が残ってる
第8回キャンプラリーは29団体が参加して27の班がこの年は構成された   一つの班が23人前後
自分は26班で中京大学の三年生がリーダー、瑞穂短大の2年生がサブリーダー  最大行事なので半分引退していて部会にも出ない4年生の有志も参加 
26班には愛知学院大学ユースホステル愛好会の他校にも名前が広まっている有名なお方が参加してた
他は男で岐阜歯科大学の3年生、中部工業大学の3年生、日本福祉大学の2年生、名古屋学院大学の2年生、愛知大学豊橋の1年生、名城大学法商の1年生、名古屋工業大学の1年生、愛知学院大愛好会の1年生
女性が金城学院大学の2年生、愛知大学短期大学の2年生、東海学園大学の2年生、瑞穂短大の1年生、安城学園大学の1年生、名古屋栄養短期大学の1年生、淑徳短期大学の1年生、金城学院大学の1年生だった

 ちなみに愛知学院大学には2つユースホステル部があり愛好会と研究会でどちらも部員が多かった
名城大学も法商と理工と2つユースホステル部  愛知大学は豊橋校舎、名古屋校舎、短大と3つユースホステル部があった

 初日は移動、開村式、キャンプ設営、夕食(班ごとに飯盒炊爨)、班ごとのスタンツ大会という内容だった
東海学園との合キャンのスタンツとは規模も内容も格段に大きくなり、4年生の有名人さんのご指導もあって26班は優勝だったか特別賞だったかで表彰された

 二日目はラジオ体操、朝食(飯盒炊爨)、オリエンテーリング(朝食時の弁当を作りOL中に昼食)、夕食(飯盒炊爨)、キャンプファイヤー
旅をするユースホステル部なのにオリエンテーリングが何かとつきものだった  どの班のサブリーダーさんもリーダーと事前に何度も打ち合わせをして旗も作ってきてた
キャンプファイヤーでは愛知県とその近辺だけで行われている火舞があった

 三日目はラジオ体操、朝食(飯盒炊爨)、テント撤収と掃除、プレゼント交換会、閉村式、そしてバスで名古屋駅だった
名古屋駅に到着後打ち上げでマイアミとういう名古屋駅前のビル屋上にあったビアガーデンで大騒ぎした  当時名駅近くには幾つものビアガーデンがあり、あぶれた班は栄まで移動して栄のビアガーデンで打ち上げをやった
当時は大らかな時代で未成年でも大学生の飲酒は大めにみてもらえてた
1年生は生ビールに醤油やソースを混ぜた『ユースの黒生ビール』と呼ばれてたものを飲まされていて、これも伝統のようだった

 酔っ払って班で円陣を組んで歌を歌ったり、掛け声、鬨の声を上げたりしていた   一般客はさぞや迷惑だっただろう
なんかタガが外れたように楽しい時間に思えた
始めは名古屋駅で解散、そのように案内には出てたのでそのまま四国へ帰る予定だったのが遅くまで盛り上がり瀬戸市の下宿屋に泊まり、翌日四国へ戻った 


昭和53年9月4日から9月8日   個人ホステリング〜夏合宿   能登半島禄剛崎

ユースホステル金沢青年の家      昭和53年9月4日



  石川県の能登半島のてっぺん、禄剛崎が夏合宿と知らされてようやく旅ができると喜んだ
石川県は高校2年の一人旅で急行きたぐにで通過しただけで行ったことが無かった
兼六園や室生犀星記念館へ行った  室生犀星の『ふるさとは遠きに在りて思ふもの』、で始まる小景異情が彫刻された自然木のプレートを買った

 ユースではミーティングがあり楽しいひとときを過ごした


ユースホステル輪島長楽寺    昭和53年9月5日
 



 当時あたりから輪島の朝市が有名になっていて行ってみたかった
当時は画像のハンドブック地図のように国鉄七尾線の終着駅が輪島だった

 ユースでは観光名所のユースというのもあって楽しいミーティングがあった
翌朝にホステラー有志で朝市に行き、和傘(番傘)を買った  無地に輪島朝市と墨書されているもので、その後は雨に日にはその傘で学校や外出していた


禄剛崎ユースホステル     昭和53年9月5日





 この禄剛崎ユースホステルに現地集合だった  そして黒で左胸に刺繍で学校名、部活名が入ったユニフォーム着用が義務

 どこのユースホステル部も夏合宿を行っていた
名古屋学院は数泊の個人ホステリング→全体合宿という流れだった
一年生から三年生が全員強制参加、四年生は引退で部会を始め行事には参加しなかった(キャンプラリーを除く)
 
 うさぎ跳びをやらされた記憶が残る、合宿なのでか楽しいミーティングの時間は無かった
 あと一年生は一芸をするのが習わしで、なんにもまだ覚えてない自分は地元のお祭りの伊勢音頭を唄った

 某先輩は見本として『かっこいい奴』を唄い踊った  ユースのミーティングで何度か見たことはあったのでそれを出来るなんて凄いなぁと感心した


学祭     昭和53年11月

 ユース部は模擬店でヨーヨー釣りと焼きそばを販売
展示では一般向けにユースホステルの歴史や仕組みを字と絵と写真でで説明した

 この年は他の学校の学祭には行ってない



東山ユースホステル    昭和53年11月26日



 下宿屋にY君という大阪から来ていた元高校球児で感じのいい同級生がいた
 彼がアルバイトで貯めて中古で買ったローレルで帰省するというので京都の京福電鉄出町柳駅まで乗せてもらった
これはヒットした歌の影響もあり大原、そして三千院へ行きたいと以前から思っていたので

 京都は子供の頃、中学の修学旅行、高校2年の夏休み、大学受験と来ていたが大原方面はまだ行ってなかった
 深夜の高速で早朝に京都に着いたからか大原も三千院もほとんど人がいなかった

 そしてその日は2年ぶりの東山ユースに泊まった
高校2年の夏休みの時と変わらず楽しいミーティングがありユースを満喫できた

 
後記 
 なんとすっかり記憶から抜けていた事が出てきました
 名古屋学院ユースホステル部は毎年文集を出していてそこにはこんな感想を書いている 


 ティータイムや東山ユースの宿泊スタンプ代わりのシールがその年のユース会員証と同じ色だった事はすっかり忘れていた
またローレルの彼とは出町柳駅で別れたと思っていたのが一緒に嵐山を廻ったようだ


 伊勢志摩ユースホステル    昭和53年12月9日



 ユースホステル部では秋季ホステリングという催しがあった
これは一年生がリーダーとなり2年生と3年生をホステリングさせるというもので、ユースホステル初心者が入部して独り立ちのような意味合いがあった

 自分がどの先輩よりもユースに宿泊しているという事は半年の間で部内に知られていたので合わせてくれそうな(無茶振りしたりワガママ言わない)先輩がセットされた
学校の授業がある土日開催なのでどの先輩も『近場で』、という希望があった

 当時は鉄道好きもあったので乗ったことの無い路線を利用しよう、それが念頭にあった
国鉄の関西線、伊勢線、参宮線そして最後に近鉄と何度も乗り継いでユースに到着
ユースでは普通にミーティングに参加した
帰りは近鉄だけ利用で時間も半分以下で名古屋に到着   『お前なぁ』、と呆れられた


 金城学院大学との交流会    昭和53年12月


滑れないのでスケートリンクでない板張りの場所にいる

  東海地方に縁のある人はSSKという言葉を知ってると思う  スポーツ用品のメーカー名で無くて椙山・淑徳・金城のお嬢さん学校の頭文字での呼び名である
その金城さんと交流会をすることになった

 場所は多治見市にあるアイススケート場で現地集合だった
当時はスキーやスケートは冬のスポーツ、または娯楽として今よりずっと盛んだった  天白区には映画のヘラルドが経営するローラースケートリンクもあった

 しかし南国の四国育ちの自分はスケートをした事は無いし、スケートの実物を見るのさえも初めてだった
体育会の部なのでこれも強制参加
同じ一年生でもこちらも金城さんにも上手な子がけっこういた  2時間ほど練習したけれどちっともうまく滑れなかった  違いを実感した



ユースホステル伊予法華寺    昭和54年3月28日



 ユースホステル部では春休みには行事は無かった
代わりに部員は2泊はどこかへ泊まること、又はどこかのユースにヘルパーとして働いて来ること、そんな指示が出ていた
名古屋学院ユースホステル部は徳島県の阿波池田ユースホステルに長年ヘルパーに行っていると知った
高校2年の冬に泊まったユースで実家に近い     でもヘルパーには応募しなかった   やはりまだ気が引けていた

 四国に帰省していて車の免許を春休みに取りに行ってたので自転車でも1時間ほどで行けるユースに泊まった
お寺のユースでありがちななんにもミーティング無し、そう予感していたら楽しいミーティングが開催された
宿泊客には中学生の男の子二人組や欧州からのホステラーもいて充実した時間だった


 ユースホステル愛知青年会館     昭和53年4月2日   


  春休みに二泊というノルマをクリアするために泊まった
これは近いというのと前年に食事が良くて下宿生活自炊の身には魅力的に思えたから
 やはり前年のように食事はあさくまでおいしくミーティングは無かった

  こうして大学一年が過ぎた
大学生になったらユースの旅をいっぱいして日本各地へ行ってみたい
その希望はユースホステル部に在籍したら無理だった

 旅をそんなにしなくてオリエンテーリングやキャンプなんかが半分以上の部は辞めようかと何度も感じてた
しかし体育会系で辞めるにはケジメをつけないといけないし、中学高校と今までも途中で部活を投げ出したので環境が変わったこの時は辞めたく無い気持ちも芽生えた

 瀬戸市共栄通の下宿屋はあまりにも貧相なので学校の掲示板に出ていた守山区小幡のアパートを借りることにした
下宿屋から自分と市会議員になったKさん(いっこ年上だった)がトイレ付きの新館、知多郡美浜町から来てたY君と滋賀県から来てたK君は和式水洗トイレ共同の旧館を契約した
なんとこのアパートは今でもグーグルストリートビューで見ることができる   築50年以上経ってるだろう

 下宿屋からアパートに引っ越す際にそれまで四国に置いていた住民票を移した   大学二年になる直前に名実ともに名古屋市民となった



その5に続く  


その1はこちら


あの頃のユースホステル部トップ





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送