追憶のユースホステル その3

その1はこちら


 高校2年生での東北・北海道一人旅は大きな成長になった
 今となればそう思う

 しかし当時はそこまで自分を分かっていなくて、ただ単に『楽しかったなぁ〜』、と回想する程度だった
 ちょうど自分たちの学年から今のセンター試験、当時は共通一次と呼ばれていたがそれが導入予定で勉強しなくてはいけない時期に来ていた
 ところがその共通一次試験が何かの都合で一年延期と知らされた

 それを幸いに自分勝手に『じゃあもうちょっと旅に出てもいいかな』、勉強嫌いなのでそう自分に都合よく考えた
 高校2年の冬休みからまたユースの旅を再開した


大阪長居ユースホステル     昭和51年12月24日



 夏と同じように東予港からのオレンジフェリーで早朝の大阪南港へ到着
 これまでの旅で乗り物、特に鉄道が好きになってきていた
  
 この旅では関西の鉄道写真を撮ることが目的だった
 京都大阪間は国鉄と阪急が凌ぎを削っていたが、京阪電車も走っていた
 路線の関係で時間では負けるからテレビカーという電車を走らせている
 そんな情報を旅と鉄道だったか鉄道ファンだったか鉄道ジャーナルかで知った

 ぜひ乗ってみたいと四国から感じていた
 21世紀の今ではなんていう事もないのでその思いを伝えにくいのですが、とんでもない最新技術のように感じていた

 肝心のテレビカーは揺れるとノイズが入り、鉄道なのでしきりに揺れていて残念ながら見られる代物ではなかった

 ユースの記憶は残っていないのでミーティングはなかったんだろう



たるみ海岸ユースホステル     昭和51年12月26日



 25日が飛んでいる  親類の家にでも泊まったのだろうか   さすがに半年前のように駅では寝てない

 阪神電車、阪急電車、山陽電鉄などの画像を撮影していて画像が残っている
 
 ここのユースは覚えている
 ミーティングは無かった   そして受付時からペアレントとホステラーが麻雀をしていた
 まだ自分は麻雀を覚える前でミーティングせずにずっと麻雀をしているのが不謹慎に感じられた

 また部屋は2段ベッドが4つほどあって、それは構わないのだが照明が自動となっていて、暗いうちは消せなかった
 蛍光灯の明るい部屋では寝られずに、同室のホステラーとぼやいたのを覚えている
結局ここのユースは滞在中ずっと麻雀をやっていて 『麻雀しないなら朝ご飯食べたら出発してね』、とまで言われた・・・


倉敷ユースホステル     昭和51年12月27日



 国鉄在来線で岡山、路面電車の写真を撮り倉敷へ

 ここも記憶が全く無い  街の記憶も残っていない
倉敷の街は後に何度か訪れたのだけれど、それでもこの時の事は何も思い出せなかった


ユースホステル海岸寺  昭和51年12月28日



 当時はもちろん瀬戸大橋開通前、岡山から国鉄宇野線そして宇高連絡船次に予讃本線各停でやってきた
 上のガイドブック画像にあるように鉄筋の建物で宿泊者は数人だった
 ミーティングも特に無かった  がらんとした印象が残っている



神泉園ユースホステル     昭和51年12月28・29日



 連泊している  しかしあまり記憶に残っていない
 この神泉園ユースはミーティングがさかんだった時があるようなのだが、この連泊時にはそこまで賑々しいミーティングではなかった
 
 場所が愛媛大学の近くで電柱等に学生ローンの 『1万円借りて利息は1日29円!』、という看板のキャッチフレーズが記憶に残っている
 まだやはり世の中を分かっちゃいなかった自分は 『29円なら困った時に助かるな、来年からの大学生活にはこんな方法もあるんだな』
そう感じた
 もちろん高利貸で単利でも105%、当然複利計算だから更にべらぼうな金利である  貸金業法が成立したのは7年後の昭和58年

 こんなので経済学部へ行ったんだから若くてバカというのは怖い


 高校二年の冬休みは中途半端な旅だった 行き先も内容も


阿波池田ユースホステル     昭和52年4月2日



 高校三年になろうとしていた春休みに当時ちょっとしたブームになってたかずら橋を体験したくて一泊二日の旅をした
  
 自宅から予讃線で多度津、土讃線に乗り換えて阿波池田

 ユースではミーティングがあった  そこで知り合ったお姉さんたちと翌日にかずら橋へ行動を共にした


徳島ユースホステル     昭和52年8月13日



 高校三年の夏休み

 ユースホステルしんぶんという月刊新聞を購読するようになっていた
 その新聞に『徳島ユースホステルでは阿波踊りを宿泊者で行います  参加者大募集!』
そんな告知が6月頃に出ていた

 通っていた高校は大学受験に備え朝が2時間前に2コマ補習で夕方も1コマか2コマ、夏休みも補習補習が入っていて実質休みは一週間だった
 まったく勉強が好きでないので嫌々通っていてストレスが溜まってたんだろう  俄然行きたくなった
 今でも付き合いのある同級生のH君に話をしたら彼も参加してみたいとの事

 こうして徳島まで行った  しかし自宅からだと阿波池田経由の徳島本線ルートと高松経由の高徳線経由があるが、どちらで行ってどちらで帰ったかも記憶にない

 阿波踊りは今でも鮮明に覚えている
 毎年楽しみに参加している、そんな人も幾人かいたがほとんどが告知で知った初心者ばかり
ユースの前で一時間ほど付け焼き刃な練習して貸し切りバスで会場へ
阿波踊りは『連』というグループで行うのだが、徳島ユース青雲連は下手すぎて有名との事だった

 まばゆいばかりのかなり明るい照明の中、下手なりに懸命に踊った
澱のように溜まっていたストレスは解消された気がした


ユースホステル亀岡市青年の家     昭和52年12月18日



 高校三年の12月   推薦入学の面接は始まっていた  
自分は二学期になってから受験科目を日本史から世界史に変更して担任に呆れられていた
勉強はしていなく深夜放送ラジオ(オールナイトニッポン、セイヤング、パックインミュージック)を聞きながら時刻表で空想旅計画を立てていた

中学の頃に『賢いな』、そう感じた同級生は東大へ行った 30人ほどもいた中学2年まで住んでた市営住宅で一番賢いと評判だった同級生は広島大学
こつこつ真面目に勉強してた同級生は男も女も地方の国立二期校と呼ばれていた大学
そこそこやってた同級生は松山商科大学や京都産業大学、近畿大学、広島経済大学、駒沢大学、日本大学などだった
まったく勉強しなかった自分は『受かれば行きたい』、と感じてた京都の大学を受けた   その日に宿泊

ユースの記憶は無い
しかし上のハンドブック地図に出ている嵐山や渡月橋に初めて訪れ景色に目を奪われた

受けた大学は当然ながら落ちた
 




 こうして高校二年から目覚めたユースの旅は高校卒業で一区切りとなった

 どうにかこうにか潜り込めた大学にはユースホステル部があった    というより大学案内にあった部活動でユースホステル部がある大学を選んだ
当時はユース最盛期でたいていの大学にはユースホステル部があったように思う


 大学に入ったらユース部に入部して日本各地を旅して47都道府県制覇したい
そして全国制覇後にはユースの発祥の地であるヨーロッパのユース旅がしたい
当時のユースホステルハンドブックにはこんな魅力的なユーレイルパスの広告が毎年掲載されてた




国鉄の最低運賃が60円で更に長距離や周遊券は学割があった頃、このパスはワイド周遊券のヨーロッパ版と感じた
ユーレイルパスでのヨーロッパユースホステルの旅を!
そんな憧れというかちょっとした目標を立て愛媛県から愛知県へ引っ越しをして新しい初めての一人暮らしが始まった


 そこから今までとは全く異なるユースホステルの世界が始まるとは思ってもいなかった





その4




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